桑の実
桑の実に染まりし指の記憶かな
子供の頃、近所には桑畑が広がっていた。梅雨明けの頃になると、風の中に甘く熟した果実の香が混じって流れてくる。母親から、あれは食べられないと聞かされていたので、いつも息を止めるような感じで木の脇を潜り抜けていた。ある日、一人の男の子がその実をもぎとって食べているのを見た。ちょっと陰気な感じで友達の少ない子だった。「それ、食べないほうがいいよ。」と言うと、びっくりした顔で走り去ってしまった。
翌朝、その子は青紫色に腫れあがった唇で学校に来ていた。わたしは、心臓が止まりそうになった。悪い病気で死ぬのではと思った。先生が、「お前すごい顔になったなあ、どどめなんか食べるからだぞ。」と言うと、ぺろりと舌を出した。その舌も青みがかっていた。「どどめ」という俗称も不気味に思えた。
ある年、夫がどこからか桑の実を摘んでできて、ジャムを作ると言ったときにはドキリとした。採取した実をざっと洗ってから、一粒一粒軸を鋏で切り落とすのだが、これがけっこう手間のいる作業なのだ。鍋に入れてグラニュー糖をまぶしてしばらく置くと全体が色づいてくる。木じゃくしでゆっくり混ぜながら煮ていると、キッチンには甘い香が立ち込める。仕上げにペクチンを入れると木じゃくしが急に重く感じられどろりと固まった。できあがったジャムをひとさじすくってなめてみると、わずかな酸味と上品な甘さが広がった。
それは子供の頃に見た、悪い夢のようなイメージとは遠くかけはなれたものだった。
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