かまど
四万温泉に来たのは十数年ぶりだろうか。
遠縁にあたる家には、すごい蕎麦打ち名人のおばあちゃんがいて、毎年大晦日になると蕎麦を取りにきていたのだ。高い山々に囲まれたすりばちのような村。大きな瓦屋根の家はどのあたりだったろうか。
家の中には広い土間があり、囲炉裏を囲んで家族がお茶を飲んでいた。日本の原風景のようだと思った。
すこし離れた板の間で、真っ白な割烹着をかけたおばあちゃんが蕎麦打ちの道具を広げていた。使い込まれた麺鉢の中で、蕎麦粉が丸くまとまってゆく。つなぎは山ごぼうの葉を蒸したもので他には何も入れない。
「蕎麦が風邪ひかねえように。」皺の刻まれた手でぬれたふきんをかける。たんたん、とん、たんたん、とん、軽やかなリズムで蕎麦を広げて畳み、四角い包丁でとんとんと切ってゆく。何時間見ても見飽きない見事な手さばきだった。
おばあちゃんが亡くなってから、この地を訪れることもなくなっていたが、すりばちのような村と、エメラルドグリーンの川の色はあの日のままだった。川沿いの道をゆっくり歩いていると、古い民家の軒先に「手打ち蕎麦」の看板が下がっていた。引き戸を開けると中はひんやりとしていて、人の気配がない。しばらくすると、奥からおばちゃんが出てきた。
「お蕎麦を食べさせていただけますか?」
おばあちゃんは、申し訳なさそうな顔をして、
「すみませんねえ。あたしも年なんで去年で蕎麦屋はやめちゃったんですよ。」と言う。
立ち去ろうとした時、薄暗い台所の奥にかまどが見えた。
子供の頃に見たことのあるタイル貼りのかまど。今も残っていたんだなあ。
「わあ、珍しいですねえ、「ちょっと写真を撮らせていただいてもいいですか?」
「どうぞ。」
今は使われていないらしく、釜の蓋の上には雑物が置かれている。
しかし、ファインダーを覗いているうちに、ちろちろと燃える赤い火が見えた気がした。
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